映画ロッキーを元旦に鑑賞しての感想

年の瀬に起きた人生を揺るがす大事件

TATeNoです。

“風来の案内人”を立ち上げ、大みそかにはこんな記事もアップしたワケですが、その舞台裏(というのか何というのか)では、(私にとって)ある衝撃の出来事が起きていました。

これについては、機会があればそのうち書こうと思いますが、とにかく、あまりに過酷な現実(状況)に、私は打ちひしがれ、体調もずっと優れず、弱気になり、顔からも生気がなくなり、目にも力がなく、マリアナ海溝よりも深く落ち込んでいたのです。

そして、そんな状況(苦境)と心情(絶望)のなかで、人生最悪ともいえる年始を迎えることとなりました。

 

偶然だけど必然

そんなタイミングで、私はロッキーを観たんです。
Amazonプライム・ビデオで。

観た理由は、ほんとたまたまです。

身も心もクタクタで、半ば放心状態な中で、ホッとひと息つきながら、なんかあるかな…と、いろいろ探していたら、なんとなく(ロッキーの)シルベスター・スタローンの顔が目についたんですね。

『ロッキーかあ…昔、観たなあ…』

親友との懐かしい再会。
正にそんなカンジでした。

20歳の頃に観て以来、二回目。

※2以降のシリーズ作品も含めれば、合算ではもっと何回も観ています。

 

元旦のシンクロニシティ

映画を観ている内に、私は衝撃の事実を知りました(※ちなみに、これはwikipediaにも出ていない情報です)。

主人公のロッキーは、世界ヘビー級タイトルマッチ(建国200年祭イベントの一環として開催される)で世界チャンピオンであるアポロ・クリードと試合をしますが、その日付けが、なんと元旦だったんです。

正に、運命を感じた瞬間でした。

そして、シンクロニシティという言葉が頭に浮かびました。
シンクロニシティ(英語:synchronicity)、意味のある偶然の一致。

それにしても、本当に驚きました。

 

映画ロッキー(ROCKY)を元旦に鑑賞しての感想

絶望して落ち込んでいた私。

ある意味では、そんなのん気に映画なんか観ている場合ではなかったともいえます。
しかし、私は何かに導かれるようにして、気づいたら観ていました。

つかの間、辛い現実から目を背けたかったのかもしれません(かといって民放のバラエティ番組を見る気はしません)。

もしくは、すがるというのとは少し違いますが、優れた作品(文学、映像)の力によって、自らの“生きる力”(生命力)を奮い立たせたかったのかもしれません。

ただ、だからといって、そんなに優れた作品だとは思っていなかったロッキーを、このタイミングでなぜ選んだのか?観たのか?そこだけは説明がつきません。

さて、感想ですが…。

実に…実にいい映画でした。
本当に、心に染みました。

所々、涙を流しながら、嗚咽をこらえながら観ました。

そして、同じ作品も、自分が変わる(年齢、立場、境遇、心情)ことで、こんなにも違って観えるのか…と再認識しました。

今回のエントリーで、私が最もお伝えしたいのは、まずはこの点です。

ちなみに、20歳の頃の私は、次のようなことを思いながら観ていました。
※ネタバレあり。

  • シルベスター・スタローンって、ほんといいカラダしてるよな』
  • 『ロッキー1からシリーズが進むごとに、ビルドアップしていくよな』
  • 『トレーニングシーンの、片手腕立て伏せや、ジャンピング腕立て伏せは、俺も取り入れてみるべ』
  • 『俺も生卵、飲もっと』→実際に1日5個飲んでみたり。
  • 『生肉サンドバッグってのは、実にいいアイデアだなあ』
  • 『現実には、いくらなんでもこんなマッチメイクはありえないよなあ』
  • 『ヘビー級の試合でガードしないのはちょっとリアリティに欠けるかな…』
  • 『でも、最後は結局負けるのかあ…』
  • 『映画のラストで流れるテーマ曲、水曜スペシャルのキラーコンテンツ、川口浩探検隊のエンディングで流れる曲じゃんよ!』
  • 『(ロッキー4の方を先に観たので)そういえば、4のトレーニング時に流れる曲は、極真空手の第四回世界大会のテレビ放映(確かテレ朝)でも使われてたよな』(最終日の三日目は私も武道館に行きました)
  • 『恋人役のエイドリアンのキャスティング、なんでこの人にしたんだろう』

 

そんなカンジでした。てへぺろ

要は、ジャンルとして“熱血ボクシング映画”だと思っていたワケです。

しかし、今回、再鑑賞して、自分はこの映画のまったく何も観ていなかったことを思い知らされました。

『ただの娯楽映画だと思っていたロッキーが、こんなにもスゴい映画だったとは…』

かつての私(青二才)は、週刊少年ジャンプのコンセプトのように、“友情、努力、勝利”的な映画、という感じで見ていたように思います。

少年ジャンプ 友情 努力 勝利 – Google 画像検索

また、映画のラストで、結果として試合には破れますが、そのうえでチャンスが舞い込んできたという意味において、一種の“アメリカンドリーム”モノのようにも思っていました。

まあ、それはそれで間違ってない?のかもしれませんが。

 

そしてロッキーは戦いを起こした

シルベスター・スタローンが、主人公のロッキーに自分を重ねて脚本を書き上げたように、私も、主人公のロッキーに自分を重ねながら観ました。

重ね倒して観ました。

はいりこむが如く。
のりうつるが如く。
憑依するが如く。

冒頭からラストに至るまで、細かいエピソードも味わいのあるいいものが、いくつもいくつもありますが、それはここでは触れません。

別に、そういうことを紹介したいワケではないからです。

負け犬であり、持たざる者であるロッキーが、一念発起し、戦いを起こした。
具体的には、早朝のランニングや身体を鍛えるトレーニングのシーン。

この、戦いを起こしたというところに私は心を揺さぶられます。

 

清々しさと神々しさの理由

それにしても。

あの、早朝のランニングシーンの清々しさときたら。
あれは、いったい何なんでしょうか。

もちろん、BGM(あのお馴染みの)の力もありますし、映画の冒頭(裏さびれた夜の街)から、そこ(ランニングシーン)に至るまで、暗い夜のシーンがやたらと多く、明かりは路地裏の街灯や、よどんだ室内での電灯だったこととの対比において、より際立つということも理由としてはあると思います。

しかし、単に暗さと明るさとの対比だけでいうなら、あのシーンは、特段明るいワケではありません。

早朝だからか薄暗いですし、若干曇り空ですし、薄いモヤもかかっていますし。

となると、あの清々しさの源泉は何なのか?

…こういうことでしょうか。

まず、それまでのシーンでは、ロッキーを取り巻く世界が、あたかも静止しているかのような感じが、私にはします。

静止した世界の中をロッキーだけが、活動しているというか、うごめいているとでもいうか。

…いや、逆ですね。

静止しているのは世界ではなく、ロッキーの方。

  • 動かない人生。
  • 進まない人生。
  • 空転する人生。
  • よどんだ人生。

 

そして、世界と切り離されているような感覚。

しかし、それがランニング&トレーニングシーンでは一転します。

ロッキー自身も、ロッキーを取り巻く世界も、躍動している感じがします。

実際、電車や車の走行シーンも、街の人々が活動している様子も、それまでとは違う雰囲気で描かれているように私には思えてなりません。

あれは、ロッキーの心が変化したから、いつもと変わらない同じ街でも、躍動しているように見える、ということの映像表現なんだと思います。

そして、心が変化したことで、それまでは、やることなすこと全てに敵対していた周囲の世界も、味方となり、応援(マネージャーやトレーナー、果物の差し入れ)してくれるようになる。

そして、港の埠頭のようなところを、恐ろしいほどのスピードで全力で走り切り、フィラデルフィア美術館前庭の階段をロッキーがさっそうと駆け上がり、誰も観ていない中(車はたくさん走行してますが)で、勝利のバンザイのように両手を天に突き上げ、何度も飛び跳ねるシーンの神々しさときたら。

『オレはやるぞ!』
『オレは変わったぞ!』

そういうことなんでしょうか。

『オレは生きてる!』

そういうことにも思えます。

『ああ、なんて気持ちいいんだ!』
『もっと早く始めればよかった!』

全力を出し切った後の心地よさ、攻めの人生の気持ちよさ、そういうことにも思えます。

…やばい、今こうして書いているだけでも泣きそうになります。

何がそうさせるんでしょうか。

ここはいまだに思索中で、言語化できないところではあります。

 

人を別人に変える力を持った作品

ロッキーという作品は、人を別人に変える力があります。

事実、私は、ロッキーを観る前と観た後とで確実に別人になりました。

どう別人になったのか。

まったく余裕も余力もなく、弱気になっており、起床直後から既に疲れているような状態だった私が、ロッキーを観たことで、気力が湧いてきたんですね。

そして、『戦おう、俺も戦いを起こそう』そう思えたんです。
苦しい現実(状況)に負けることなく、戦いを挑もうって。

戦いを挑む相手は?

誰かではありません。
己でもありません(敵は自分という言説が溢れていますが)。

課題です。

己の人生に突き付けられた課題。

与えられた課題を乗り超えるために戦う。

辛くても、大変でも、面倒くさくても、やる気がしなくても、疲れていても、気が遠くなりそうでも、起き上がり、立ち上がり、現実を小さく変え続けるべく、頭を使って発想&工夫し、手足を使って、今の自分ができること、目の前のやるべきことに黙々と取り組む。

そして、状況が変化すれば、また気力を奮い起こして対処する。

映画を観る前までは、『もうだめだ…』『今回ばかりはこたえたわ…』『これからどうなってしまうんだろう…』『これからどうしていけばいいんだろう…』と感傷的になっていました。

過酷な運命に対して、自分(や家族)が翻弄されているというか、劣勢にもかかわらず、受け身で必死に耐えているような感じとでもいうか。

それが、映画を観たことで、『そうだよ、やるしかねえんだよ』『今の状況で俺がやらねえで誰がやるんだよ』と攻めの姿勢を取り戻した自分になっていました。

※もっとも、20歳の頃の私はロッキーを見たことで、トレーニング方法を参考にする程度にしか影響を受けませんでしたので、そういう意味では作品においても、出会いのタイミングが重要なのかもしれません。

 

世界チャンピオンとの試合

世界チャンピオンとの対戦前日、試合会場を下見したロッキーが、家までの帰り道に考えたことを、恋人のエイドリアンに打ち明ける印象的なシーンがあります。

なぜ、印象的かと言うと、あの伝説的なランニングシーンやトレーニングシーンの後にもかかわらず、ロッキーが弱気な胸の内を吐露するからです。

対戦のオファーから逃げなかった時点で、ロッキーが勇敢な心の持ち主であることは疑うべくもありません。

とはいえ、相手はヘビー級の世界チャンピオンであるアポロ・クリード。

ロッキーはエイドリアンに弱気なセリフを言いまくります。

  • ダメだ。
  • とても勝てない。
  • 勝てるわけがない。
  • アポロと自分とではあまりに違いすぎる。
  • 自分には挑戦者としての素質がない。
  • 自分はもともとクズみたいな男だった。
  • いくら偉ぶってみても自分には何もない。

 

そんなロッキーの言葉に対して、エイドリアンも言葉を返しますが、あれは会話という感じではなく、ロッキーがひたすら自分の本音をエイドリアンに、ゆっくりと話しているだけのように思えました。

そして、ロッキーは自分に言い聞かせるように言います。

(字幕版)
試合に負けてもどうってことない
脳天が割れてもいいさ
最後までやるだけだ

相手は世界一なんだ
最後のゴングが鳴ってもまだ立ってられたら
俺がゴロツキじゃないことを…初めて証明できるんだ

 

己の存在を証明する戦い。

ただ、あくまでもそれは、戦う前に頭で考え、何となく言ってみたことであって、実際に試合をしている最中にはそれを念頭に置いて戦っていたワケではないのでは?と私には思えます。

つまり、ゴロツキでないことの“存在証明”というよりは、ロッキーとしての“存在実感”だったのではないか。

歴史的な一戦において、自分が世界に関与(自分次第で、ボクシング史や観衆の人生が変わる)している実感。

ラウンドが進むごとにスタミナも気力も右肩下がりのアポロに対して、ロッキーはスタミナが減り続けるのと同時に、気力面ではチャージしていたように私には思えます。

また、全てを出し切ったという意味では、チャンピオンも挑戦者も同じですが、試合の後の人生や生活が意識のすみっこにあったアポロと、『ここで死んでもいい』と本気で思って戦ったロッキーとの意識差が、二人の圧倒的な実力差を埋めたのではないか。

そんなふうにも思います。

 

結びに

ベタな表現で恐縮ですが、私もロッキーのように、最後の“ゴング“が鳴らされるまで、現実という名の“リング”に立ち続けます。

そして、その時々のテーマ(降りかかる難問や応用問題、自分で設定した課題、現実を小さく変える戦い、等)に対して、ガチンコで向き合う自分で在りたいと思います。

何はともあれ、ロッキーと再会して本当に良かったです。

毎年、元旦にはロッキーを観ようと思います(2以降はもう観ません)。

それでは、また次のエントリーでお会いしましょう。

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