「今ここ」が大事といわれる理由。それは明日死ぬかもしれないから。

今日、私の親戚(父方)が亡くなりました。

名前は、柳貞子さん。
スペイン歌曲の歌手です。

既に多数のニュースサイトでも報道されています。

仮に、“かつて世界で活躍した日本人”的な内容のテレビ番組があるとしたら、取りあげられてもおかしくないほどの活躍をされた方です。

それほど懇意にしていたワケではありませんが、お誘いを頂いて年末のクリスマスコンサートには何度か足を運んだことがあります。

昨年の暮れ(12/9)、母と出かけたクリスマスコンサートの際にお会いしたのが最期の別れとなってしまいました。

愛と平和歌う31回目の聖夜
カタルーニャ民謡「鳥の歌」紹介 85歳の柳貞子さん

 スペイン歌曲の第一人者として半世紀にわたり活躍してきた歌手、柳貞子さんが来月9日、クリスマスコンサートを開く。今回が31回目。85歳の柳さんは、「こんな時代だからこそ、自分のできることで愛と平和を訴えたい」と話す。

 柳さんは東京芸大声楽科を卒業後、ソプラノ歌手として活躍していたが、フラメンコをきっかけにスペイン音楽に魅せられ、昭和36(1961)年、29歳でスペインに渡った。ラジオの公開放送で歌ったスペインの歌謡曲「すみれの花売娘」が評判となって引っ張りだことなり、6年にわたりスペインやポルトガルで活躍した。

 帰国後、子育てのために活動を一時休止するが、74年に再開、その年に最初のクリスマスコンサートを開いた。このとき、チェリスト、パブロ・カザルスの演奏で知られるカタルーニャ民謡「鳥の歌」を初めて歌で日本に紹介した。以後、レコードやコンサートを通じて精力的にスペイン歌曲を普及した功績により、スペイン政府から文民功労章エンコミエンダ章を授与された。

 最近、佐藤愛子さんのベストセラー『九十歳。何がめでたい』にいたく共感したという柳さんは、「85歳なんてめでたくもない。あちこちガタがきて、いつまで元気に歌えるか分かりませんもの」と言いつつ、「これが最後のつもりで、今年もクリスマスに愛と平和のメッセージを贈りたい」と意気込んでいる。

(2017.11.17 産経新聞)

 

 

そんな彼女の経歴は、実に栄光に満ちたものです(プロフィールから主要なものだけ抜粋しました)。

  • 1961年・・・スペインに渡り、故コンチータ・バディア女史に師事。
  •  同年・・・・ラジオ・マドリード、TVE(スペイン国営テレビ)でデビュー。
  • 1962年・・・ポルトガルテレビデビュー。62年~64年までニューヨーク公演。
  • 1966年・・・スペイン国際歌のフェスティバルで第一位。
  • 1982年・・・マドリードでリサイタル「スペインと日本のうた」
  • 1988年・・・広島にて「スペインの歌」チャリティーコンサート。
  • 1992年・・・リサイタル「スペイン歌曲500年」他、多くの公演に出演。
  • 1994年・・・清里スペイン音楽祭に出演。
  • 1996年・・・フィンランドにおいて、コンサートツアーゲスト出演。
  • 1997年・・・スペイン国王陛下より“文民功労勲章・エンコミエンダ賞”を受賞。
  • 1999年・・・村治佳織と柳貞子ジョイントコンサート。
  • 2001年・・・広島にて「柳貞子 午後のコンサート」
  • 2002年・・・TBSラジオスペシャル「柳貞子 地中海をうたう」
  • 2004年・・・NHK衛星テレビで、五木寛之氏と対談。
  • 2006年・・・毎日放送 映像’06「女ざかり、男ざかり」ドキュメンタリー放映。
  • 2007年・・・NHK 第1放送 「ラジオ深夜便」ゲスト出演。
  • 2009年・・・浜離宮朝日ホールにてコンサート。
  • 2014年・・・NHK FM「わが故郷 わが青春」

 

彼女はどうしてスペインで活躍できたんでしょうか。
きっかけは何だったんでしょうか。

以下は生前の彼女から直接うかがった話(コンサートでのMCか何かで)です。

20代の頃、スペイン音楽の魅力に引き込まれ、どうしてもスペインに行きたくなった彼女は、当時文通していたアランフエス(首都マドリードから南に車で一時間足らず)在住のスペイン人(小さな家電屋を経営していたドミノ好きのおじさん)に手紙を書きます。

「どうしてもスペインに行きたいが、お金がないから現地で何とか仕事(歌の)が出来ないだろうか」

すると、その方の長女さんの婚約者がラジオのアナウンサーで、マスコミ関係の知人も多いので、歌のテープと写真や資料などを送るようにと言われたのだとか。

そしてそんなやりとりが、きっかけとなって、彼女はスペイン進出の足がかりをつかんだのです。

 

そんな彼女が、“食べること”“死ぬこと”といった根源的なテーマについて書いたエッセイを紹介します(一部抜粋)。

時は嫌でも過ぎて行き、私の体もかなり古くなったために、今や私にとって“禁じられた遊び”ならぬ“禁じられた食事”の毎日を送る身となろうとは、人生はそう言うものとは知りながら、何が起こるかわからないものである。

とにかくこの慢性膵炎と言う奴は実にしぶとくて、もう治ったと思ってつい何でも食べてしまうと、又ぶり返す陰湿な嫌な奴なのである。つまり“禁じられた食べ物”が沢山あって、油が最も悪く,パエーリャをはじめとする大好きなスペイン料理も、バターの多いフランス料理も、ワインもケーキもコーヒーも駄目なのだ。

日本食でも油っこいもの、美味しい鰻やトロも、てんぷらやすき焼きも駄目。中華にいたってはほとんど全部だめで、では一体何が食べられるかといえば、日本人が大昔から食べていたもの、油を使わない料理ならば大丈夫なのである。

点滴をうち、もともと痩せている体はこのためもっと痩せて、皮膚もカサカサ。内部から採れないので仕方なく外部から、と言うわけで、牛乳を自棄になってガボガボとお風呂に入れて、何とか欲求不満を慰めていた。

これではとてもエネルギッシュなスペインの歌は歌えない。それでコンサートもキャンセルだし、毎年のように行っていたスペイン旅行も取止めで暗い日々を送っていたが、日がたつにつれ少しよくなってくると、どうやら悟りの境地、と言うより諦めといった方がいいかも知れないが、人間こういう時期もあらん、と思うこと。

失ったものを思うより、今あるものをフルに活かして何とか生きていくこと。歌えないなら歌わなければいいのだ。歌うことだけが人生じゃあるまいし、エネルギーがなければ、無理に作り出そうとしても出てくるものではなし、”禁じられた食事”に素直に従って”禁じられていない”ものを探そうではないか。

仕事を休むと言うことは、いついつまでに何々をしなければならない、と言う義務観念から開放されることであって、何とこれはここ20数年味わうことの出来なかった、実に素晴らしい開放感であることか。

小さな庭に色とりどりの花を植えて花園を作り、テラスに机と椅子を持ち出して好きな本を読んだり、好き勝手にものを書いたり、お茶を飲んだり、辺りの自然は今一番美しい五月を迎えようとしていて、芳しい風と花の香りが、“生きている”ことを感じさせてくれる。

“禁じられた食事”ではあっても、好きなものが食べられなくて悲しいけれども、戦後の、あのスイトンの薄さと空腹に泣いた頃の辛さを思えば何て贅沢なと思う位、お腹一杯食べられて、まだまだいろんな献立が考えられるではないか。

その内「慢性膵炎の人のための食事」と言う本が書けるのではないかと思うほど、制限の中での美味しい食事を考えて創っている毎日。

本を読む時間も前よりずっと増えたし、人間の生死を考える時間も出来た。どんな時でも希望と感謝を忘れてはいけないことも……。

(1999年4月末)エッセイ「禁じられた遊び」より

 

19年前のエッセイですから、彼女は実に19年もの長きに渡って、ここに書いてあるような過酷な食生活を続けておられたんですね。

そして、これを読んで私の疑問は氷解しました。

私が彼女のコンサートに初めて行ったのは、7年前になります(2011年12月17日)。

ニュートキョー本店ラ・ステラで行なわれたチャリティーコンサート(東日本大震災復興への祈りと鎮魂のうた)にて、彼女の歌声を初めて聴きました。

事前の情報で、とてつもない偉人であることは知っていましたが、率直な印象としては、『(歌の時もトークの時も)声が小さくて聴こえにくいな』というものでした。

しかし、それが今回このエッセイを読んだことで、『そうだったのか…』と衝撃と共に理解に至ったのです。

今、こうして書きながらも、とても哀しい想いです。

もちろん、多少病弱であることは伯父から聞いていたので知っていました。
また、そんな彼女に対して、私の父は折にふれて健康飲料を送っていました。

そんなこともあり、帰り際の挨拶で、「アレのおかげで、風邪をひかなくなったのよ」と嬉しそうに微笑まれておられたのが、本当に、本当に昨日のことのように感じられます。

 

歌の中の「死」は切なく美しいが、私の現実の死はいつもそばにあって、日々老いによる体の不調との闘いの中で次第に近づいている様な不安がある。“自然に帰る”という様な静かな心でそれを受け入れることが今はまだ出来ない自分に気付く。

生への愛惜の思いが胸一杯に溢れ、愛する者達との別れが辛く悲しい。死の訪れはいつなのか。そして、その死の先に何があるのか?

問いに答えてくれる確かなものは何もないが、全てをあるがままに受け入れることが出来て、あともう少し私は生きて行きたい。

(2004年1月)エッセイ「死」より

 

話は前後しますが、彼女とは2007年に行なわれた祖父(父方)の“偲ぶ会”でお会いしたのが初めてでした。

以来、コンサートや食事会などでたまに顔を合わせる程度の付き合い。
また、お会いしたときも、それほど会話を交わしたワケではありません。

そんな彼女がコンサートの告知をする際の、お決まりの言葉に「今回が最後です」というのがありました。

事実、私も『最後ならばぜひとも行かねば…』と思い、足を運ぶこと数回。

しかし、そんなことが何回か続きましたので、『毎回、最後っておっしゃってるけど、来年もきっとまたあるんだろうな』くらいに思っている自分もいました。

しかし、彼女は亡くなりました。

もう年末の風物詩であったクリスマスコンサートに行くことはできません。

今にして思うことは、きっと彼女自身は『今回が最後』と、毎回本気で思っていたんだろうな、ということです。

正に一期一会の精神。

私の周囲でも、一昨年の夏に私の父が亡くなり、昨年の春に妻の祖母が亡くなり、夏に妹の義父が亡くなり…と、大切な人たちが立て続けに亡くなりました。

亡くなった方には、もう二度と会うことはできません。

『親父に会いたい』『会って話がしたい』と、身悶えしながら、祈祷師の如く神仏に祈ったとしても、会うことは叶いません。

その圧倒的な現実。

それより何より、自分だっていつ死ぬかなんてわからない。
今、生きている愛する家族や仲間だって。

だから、今日からまた一期一会の精神で生きていくと思い定め、誓い直して、自分の、この世での役割をしっかりと果たして参ります。

柳貞子さん、今まで本当にありがとうございました。

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