宮本輝先生の小説作品でおすすめしたいのは春の夢

TATeNoです。

今回のエントリーでは、我々を身動きできなくする“手ごわい敵”について、持論(毎回ですが)を述べようと思います。

“手ごわい敵”って何だと思いますか?

ちなみに、それは我々の…

  • 成長を妨害します。
  • 成功を妨害します。
  • 充実を妨害します。
  • 幸福を妨害します。

 

人生が思い通りにいかず、悩んでいる方は、是非読んでみてください。

そして、今回の“恩作”は、宮本輝先生の小説“春の夢”です。

 

苦悩の中で読んだ“春の夢”

“春の夢”は、宮本輝先生の作品で、私が最初に読んだものでした。
私が苦悩のまっただ中にいた中学ニ年生の時に。

衝撃の出合い。

そんな言葉が相応しいくらい、魂が打ち震えるくらいの感動でした。

それ以降も、再びの衝撃を求めて、太宰治賞を受賞したデビュー作の“泥の河”や、芥川賞を受賞した“螢川”、それ以外にも“錦繍”“青が散る”“夢見通りの人々”と次々に読みましたが、私にとって、この“春の夢”を超える作品には出合えませんでした。

いや、実は分かっていたんです。出合えるはずがないと。

つまり、心のどこかでは『いやいや、そもそもストーリーが別物なんだから、あれと同じ衝撃を他の作品に求めていること自体が、無理な注文だろう』と思いながら、読んでいたワケです。

実際、宮本輝先生の作品で、作品の完成度や世間の評価において、“春の夢”を超えるものは、いくらでもあると思われます。

ですが、私にとって“春の夢”こそが最高傑作なのです。

とはいえ、今となっては、正直ストーリーの細かい部分はよく覚えていません。

ただ、今回の記事を書くにあたり、あえて読み返したりはしませんでした。

何故か?

それは、あの時に感じた衝撃を大切にしたかったからです。

もちろん、再読すれば、時間が経過する中でボヤけていた部分も鮮明に甦りますし、中学生の頃に読んだ時とは、まったく違う感想も得られると思います。

それこそ、元旦に観た、映画ロッキーのように。

しかし、それでも記憶がある以上、あの衝撃は二度と味わえないのです。

もっとも、そんなことを言いながらも、いつかは読み返したいと思っている自分もいたりするワケですが。どないやねん

 

小説“春の夢”はこんなおはなし

さて、そんな“春の夢”ですが、私は大昔に読んだ小説のいったい何について書こうとしているのか?

別に、ここでストーリーのあらすじを紹介したいワケではありません。

そんなものは、ネット上の至るところに書かれています。

とはいえ、未読の方に対して、まったく書かないのも不親切ですので、本の裏表紙に書かれている文章を引用しておきます。

生きた!愛した!戦った!めくるめく、あの青春の日々よ。
なき父の借財をかかえた一大学生の、憂鬱と人生の真執な戦い。
それをささえる可憐な恋人、そして一匹の小動物……。
ひたむきに生きようとする者たちの、苦悩とはげしい情熱を、
一年の移ろいのなかにえがく青春文学の輝かしい収穫!

 

次に、Amazonからの内容紹介からの引用です。

大阪にあるホテルでのアルバイトに勤しむ彼の部屋には、釘で柱に打ちつけられても生きている蜥蜴の「キン」がいる―。可憐な恋人とともに、人生を真摯に生きようとする哲之の憂鬱や苦悩、そして情熱を一年の移ろいのなかにえがく、青春文学の輝かしい収穫。

 

こんな感じです。

Amazonの内容紹介の方には、

“釘で柱に打ちつけられても生きている蜥蜴のキン”とありますね。

何じゃそりゃあ?って感じですよね?

未読の方にとっては、何がなにやらワケが分からないと思います。

なので、この部分に関してのみ、おぼろげな記憶を元に少しだけ補足しておきます。

主人公の井領哲之は大阪在住の大学生です。

彼は、アパート(オンボロ)に越してきた日の夜(確か)、暗がりの中、手探りで自室の壁に釘を打ち付けます。

帽子をかけるためのものです。

そして、次の日、出がけに帽子を取る時には気づかず(確か)、仕事から帰ってきて帽子をかけようとした時に、そこに異様なものを見て、悲鳴をあげます。

一匹のトカゲが釘で柱に打ち付けられていたのです。
それは紛れもなく、哲之が打ちつけたものでした。

彼は謝りながら背中を貫通している釘を抜こうと思い立ちますが、『抜いたら血やら内蔵やらが飛び出て死んでしまうかも』と思い直し、生かすために、柱に打ち付けたままにしておきます。

そして、哲之はトカゲに「キン」と名付け、ピンセットでエサを与えたり、霧吹きで水を吹きかけたりして、ペットのようにかわいがります。

こうして、キンの生存は哲之にゆだねられたのです。

…補足はこれくらいにしておきます。

何となく、お分かりいただけましたでしょうか?

物語の中で、キンは何度も登場しますが、全部を合わせても文章量としてはそれほど多くありません。

ただし、その存在感は圧倒的であり、本作における陰の主人公ともいえる存在です。

哲之は『いつか釘を抜いてあげよう』と思いながらも、釘と肉とが一体化しつつあるのを見ると、踏ん切りが付かず、その決断は小説のラスト(新居への引っ越し)まで持ち越されます。

遂に釘を抜く日に、どうなったのか?
それは実際に読んで確かめていただきたいと思います。

 

長年の問い『あの釘とは何だったのか?』

さて、ようやく本題に入りますが、“春の夢”を読んで以来、私は“ある問い”を長年の間、胸の中に抱き続けていました。

その問いとは、

“あの釘”とは何だったのか?

です。

キンちゃんの身体を背中から貫いた釘とは何だったのか?

これが長年の問いでした。

  • 不自由の象徴?
  • 先天的に与えられた所与のようなもの?
  • 我々を縛り付ける足かせのようなもの?

 

成功哲学や自己啓発などでは、よく“ノミのコップ”“サーカスの子象の鎖”の話が登場します。

ご存知な方にとっては、深く同意していただけるのではないでしょうか?

知らない方のために、一応軽く説明しておきます。

まず、ノミの方ですが、ノミという生き物は、わずか数ミリの体長にもかかわらず、数十センチは跳ぶという途方もないジャンプ力の持ち主です。

しかし、そんなノミをコップなどに閉じ込めると、ジャンプをしても天井にぶつかるため、今度はコップを取り去っても、その高さ以上には跳ばなくなるというものです。

ノミとコップ – Google 画像検索

私自身が実際に実験したワケではありませんので何とも言えませんが、まあ、そんなような話です。

次に、小僧…じゃなくて子象ですが、生まれた頃から、足にロープをかけて育てられると、大人になってから、(そのロープが縛り付けられた)杭ごと引き抜く力が付いても、象は決してロープで 動ける範囲以上には移動しようとせず、それどころか、ロープと杭が繋がっていなくとも、象はおとなしいまま、といったような話です。

象 鎖 – Google 画像検索

これらを踏まえて、キンの釘の話に戻ります。

キンにとっての釘は、ノミにとってのコップや、象にとってのロープ以上に、強烈に自己を縛ります。

何故なら、思い込みとか、そんなレベルではなく、事実として己の身体ごと釘が貫いているからです。

象やノミのように、本当は動こうと思えば動けるのとは次元が違って、動こうにもまったく動けないワケです。

しかも、動けばリアルに痛みが伴います。

それを踏まえた上で、キンにとっての“釘”とは何なのか?

そして、それを我々人間に置き換えるとどうなるのか?
我々をガンジガラメに縛り付けるものとはいったい?

正解はありませんが、私はこのように思い至りました。

釘とは、“原因”ではないか。

 

原因があって結果があるとは言うけれど…

この世には、“原因と結果の法則”“因果の法則”といわれる宇宙?の法則があります。

意味は、言葉のとおりです。

  • 原因があって、結果がある。
  • 結果には、必ず原因がある。

 

で、それはそれで別にいい(その通りだから)のですが、我々はえてして、自分の現状(現在おかれている状況)という名の結果に対して、『何が原因なのか?』、『これが原因では?』というように、勝手な決めつけをします。

要は、犯人探しです。

  • 貧乏なのは、そういう親の元に生まれたから。
  • モテないのは、親がそういう外見に生んだから。
  • 低学歴なのは、親が教育熱心じゃなかったから。
  • 商売が上手くいかないのは、不景気だから。
  • 生活が苦しいのは、日本の政治が悪いから。
  • 成功できないのは、学歴や人脈がないから。
  • 出世できないのは、意地悪な上司がいたから。
  • 行動できないのは、多忙で時間がないから。
  • 自信がないのは、学生時代にイジメられたから。
  • 今の境遇に甘んじているのは、アイツがいるから。
  • 〇〇なのは、アレがあったから。
  • 〇〇なのは、アイツがいたから。

 

まあ、これくらいにしておきましょう(苦笑)。

一部の人は、自分なりの世界観と理屈で、原因(と思われるもの)を特定し、『全ては〇〇のせいだ』と決めつけて、他責的なスタンスで生きていきます。

しかし、考えてみてください。

これほど自分をがんじがらめに縛るものは、他にはありません。

だってそうですよね?

限界(壁)の場合は、突き破れる可能性がある分、まだ救いがあります。

ところが、原因(釘)の場合は、“原因と結果の法則”絶対的である(と思っている)が故に、自分が“あるもの”を犯人(原因)と特定した途端に、我々を自動的に“現在の結果”へと導き、そして固定化します。

  • アレのせいで→今こうなった→だからどうにもならない
  • アイツのせいで→今こうなった→だからどうにもならない

 

よろしいですか?

私の考えでは、正にそういう“一連の思考”こそが我々を柱に打ちつけている釘の正体であり、冒頭にある我々の成長、成功、充実、幸福を妨害する手ごわい敵なのです。

現実がガチガチに固定化されていては、(たとえミジンコのように小さくであったとしても)それを変えることは容易ではありません。

哲之にとって、釘で柱に打ち付けられて身動きができないキンの哀れな様(さま)は、無力で不自由な自分(哲之)の境遇そのものです。

  • 過去の〇〇が原因で、現在の結果となっている。

ひいては、

  • 前世の〇〇が原因で、今世の結果となっている。

 

私は、それが正しくないとか間違っているとか言っているのではありません。

元より、検証ができるものでもありませんし。

また、くり返しになりますが、

  • 自分が不幸なのは◯◯が原因
  • 自分が不利なのは◯◯が原因
  • 自分の不遇は◯◯が原因
  • 自分の苦境は◯◯が原因

 

と各自が思っている各原因に対して、

「その原因は間違ってますよ!」「それが原因ではありませんよ!」と、考え違いを指摘しているのでもありません。

それが、正しいか正しくないかはこの際どうでもいいのです。
それが原因であるかどうかの正解には興味がありません。

 

正解ではなく設定

要は、正解ではなく、設定の話です。

自分がどう捉え、どう思い定めるか?です。

ですから、それが正しかろうと正しくなかろうと、もし何の疑いもなく、『現在(今世)の原因は、過去(前世)の〇〇』と我々が思い定めたとしたら、その瞬間、巨大な釘がバーンと現れ、現実という名の柱に縛り付けるべく、背中に深々と突き刺さり、やがて身体と同化します。

そして、自分自身と同化した釘を抜くことはもはや誰にもできません。

それでは、我々はどうすればいいのでしょうか?

  • どうすれば、釘から逃れられるのでしょうか?
  • どうすれば、自分を柱と釘とから解放できるのでしょうか?

 

私はこう考えます。

釘なんて最初からないことに、ただ気づけばいい。

どうやって?

それは、

原因や結果は関係なく、全ては自分の狙い通りだった。

と思い知ること。

では、狙いとは何か?

それは、『自分は少しも悪くない』という自己の正当化(被害者化)です。

つまり、自らの正当性を強化するために、いかにもそれらしい犯人(原因)をデッチあげているだけというワケです。

犯人(原因)が決まると、もうそれ以上は考えなくていい分スッキリしますし、周囲にも何かと言い訳ができますので。

全ては、自分のせいではないと。全ては、アレのせい、アイツのせいである、と。
何だかんだで、人生はその方がラクチンですからね。

しかし、そこからは何も始まりません。

ですので、たとえその主張が正しいとしても、それを言ってはダメなんです。

すべては自分の設定次第なんだ、ということを認識してください。

 

春の夢

ですので、原因を悪役に仕立て上げて、自分の言い訳に利用していたことを、まずは認めましょう。

そう思い至った時、我々を柱(固定化した現実)に打ち付けていた釘(原因)は消え去ります。

つまり、目覚めてみれば、たちまち消え失せる夢のようなもの。
暖かい春になれば、寒かった冬なんて幻に感じられるように。

それこそが、この“春の夢”というタイトルの意味に思えてなりません。

それでは、今回はこの辺で。

また次のエントリーでお会いしましょう。

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