詩人ランボーの永遠と無常

また見つかった。
何が、永遠が。
海と溶け合う太陽が。

アルチュール・ランボー 小林秀雄訳 “地獄の季節”より(岩波文庫)

 

高校時代に読んだ“ランボー”の散文詩 “地獄の季節”。

Jean Nicolas Arthur Rimbaud – Google 画像検索

この一節が現在に至るまで私の心に残り続けている。

はたして、19歳(!)のランボーが見つけたのは、永遠だったんだろうか?

海と溶け合う太陽…。

溶け合うということは、つまり、それは夕焼けを意味するワケで。

sun setting on the horizon – Google 画像検索

 

夕焼けから永遠を連想するだろうか?

凡人の私が連想するのは、一日の終わりとか、人生の終わりとか。

永遠というより、終焉というか。

しかも、溶け合う様子からは、永遠というよりは、むしろ真逆の無常永遠不変のものはない)を感じてしまう。

…日が暮れた後、夜が来て、闇が来て、日が昇って、朝が来る…という意味ではくり返しなので、そこに永遠を感じたということなんだろうか?

しかし、それだって、何十億年か経って、太陽が死を迎えれば終わるワケだが。

もっとも、不世出の天才詩人が書いた詩を、私のような凡人がああだこうだ言っている時点で相当に無理があるワケではあるが、そこは大目に見て頂くとして。

そういえば、私が少年時代読んだ手塚治虫先生の“ブラック・ジャック”で、心に残り続けているセリフがある。

「これきりなのね…手術が終わったらこの気持ちもかき消えてしまうのね」

「いや、そうじゃない。この瞬間は永遠なんだ」

手塚治虫“ブラック・ジャック”「めぐり会い」より(少年チャンピオン・コミックス)

 

この瞬間は永遠。

なんという名言。

そう思った私は、以来、素晴らしい時間や、充実した時間、かけがえのない時間を過ごす度に、この言葉を頭の中で反芻して生きてきた。

しかし、現実には、永遠ではなかった。

『この瞬間は永遠』と思っても、そもそも人は忘れる生き物である。

『この瞬間は永遠』と思ったことも、やがて忘却の彼方へと消え去る。

それより何より、自分自身の気持ちも変化する。

変化してしまえば、永遠と願ったことも、むしろ、どうでもよくなったりもする。

すぐに終わるからこそ、すぐに変わるからこそ、だからこそブラックジャックも、“永遠”と表現しているワケで。

実際、良い方(嬉しい)の話でいえば、一日一日、卒業までの日々をカウントダウンするように過ごし、永遠に続くかに思えた地獄の中学生活(私事で大変恐縮だが)も、終わった。

終わったどころか、今となっては遠い昔。

また、悪い方(悲しい)の話でいえば、永遠とは思わないまでも、末永く続くと思っていた親子関係が、一昨年、父が亡くなったことで突然終わった。

もちろん、父は私の胸の中で永遠に生きている。
そう思い込むようにはしている。

しかし、現実には、そう思えば思うほど、亡くなったという事実が迫ってくる。

この世に、もういないという事実。

それに、そんなことを言っている私だって、いつ死ぬか分からない。
そして、その一方では、いつかは死ぬということが信じられない。

いつか終わりが来ると頭では分かっていても、一方ではいつかは終わることがどうしても信じられないでいる。

ただ、信じられようと信じられなかろうと、この世に生を受けた者は、いつか必ず死ぬ。

『父のことだから、もう生まれ変わってるのかもしれない』

そんなことを思ったりもするが、たとえ、生まれ変わり(生命は永遠)があるのだとしても、父の名前としての生、父の外見や内面、父の性格や人格としての生は終わった。

だから、永遠なんてものはない。

あるのは、刹那の連続のみ。

無常(永遠不変のものはない)という真理だけが永遠なのだ。

つまり、変わり続けるということだけが、(永遠に)変わらないということになる。

そうか。だから…。

ランボーは、森羅万象が生滅流転するという永遠の真理を、海と溶け合う太陽の中に見出したのかもしれない。

また見つかった。
何が、無常が。
海と溶け合う太陽が。

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